比叡山焼き討ちの日
昨日の新潟放送のラジオで、9月29日はクリーニングの日と言う事で、「きれいに消し去りたい過去を教えて下さい。」なんてものを放送していました。
本当に消し去りたい過去の話は思い出したくも無いこと・・・
一つを消せば今は違う人生だったのでしょうが、それが幸せなのか?と思いながら車の中で聞いていました。
今の記憶を持ちながら過去に行けば失敗はしないのでしょうが・・・?
そうでなければ、また失敗でしょうね~。(ーー;)
私は6月生まれの双子座です。
9月30日の運勢が、1位!とあったので取っておきましたが、な~な~にも無かった!「運気がアップします。」とは、どういう事を言うのでしょうか?
ん~・・・ときめいてみたい・・・
(*ov.v)o_(〃ω〃)テレテレ♪
いい年こいて・・・(>_<)
本日9月30日の「今日は何の日」は、
1571年9月30日、織田信長による比叡山焼き討ちの日。
1570年7月30日の姉川の戦いで勝利した織田信長でしたが、同じ年の8月26日の野田城・福島城の戦いでは、浅井長政・朝倉義景連合軍に背後を突かれ、連合軍が立てこもった比叡山での攻防戦になりました。一旦は正親町天皇の調停により和睦したのですが、・・・
翌1571年、浅井長政、朝倉義景らをたてに当時の寺院が世俗の権力と一体化して、宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを懸念、批判していた織田信長は、比叡山の僧侶たちの皆殺しを計画します。
そして、1571年の今日、比叡山延暦寺を焼き討ちにします。比叡山は戦略上の重要な地域でしたが、大規模な僧兵隊が駐屯していたわけではなく、織田信長の眼前の敵では無いものでしたが腐敗を排除しようとしたもので、仏を信仰することを嫌っていたわけでは無く、人々に信仰を禁止もしていませんでした。
織田信長は僧侶、学僧、などの首をことごとく刎ねたと言われていますが、擁護する弁も出ているのは間違いなく、
当時の史料である1570年の「多聞院日記」にも
「(比叡山の僧は)修学を怠り、一山相果てるような有様であった」と記されており、
「信長公記」にも以下のような記述があります。
山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く
当時の比叡山が堕落していたことが指摘されたものは他にもあり、
焼き討ちの責は比叡山にあるとの指摘は・・・
小瀬甫庵も「太閤記」で
「山門を亡ぼす者は山門なり」と比叡山の僧を批判
新井白石が「読史余論」で
「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり、是亦天下に功有事の一つ成べし」として以降、
比叡山焼き討ちは肯定的に評価されてきました。・・・
しかし、書かれ残されてきたものは、織田信長にとって優位なものばかりであるように思えてなりません。(^_^;)
戦国時代の事件などを記録した「多聞院日記」の著者は、奈良興福寺の僧侶であり、歴史的に比叡山とは長い対立関係にありますし、「信長公記」「甫庵太閤記」の元となる資料の著者は太田牛一で、信長の家臣でした。
「信長公記」の中には、焼討ちの理由は比叡山が浅井、朝倉方についたのでその憤りを散ぜんがためと本音と思いしき記載もあり、「年来の御胸朦(わだかまり)を散ぜられおわんぬ」とあります。すなわち焼討ちは敵対した者に対する攻撃であったというのが本質でしょう。「信長公記」にある「天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し」などの下りは大義名分としか捉えられないとのことですね。
日本の歴史学者である林屋辰三郎は、織田信長が近江における宿所を比叡山とは創設以来の対立関係にあった園城寺(三井寺)光浄院にしていたことが大いに関係する旨の指摘をしているようですね。
来年のNHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」は、まさに織田信長に殺された浅井長政と、織田信長の妹であるお市の方の三女として生まれた江(ごう)を主人公に時代背景に迫るのでしょうが、このドラマでも比叡山焼き討ちの本筋に、迫ってくれるものと期待をしています。(^_^)v
上野樹里さんが、ドラマ「大奥」では、思いっきり悪役として描かれていたお江与さんをどのように演じてくれるのか、楽しみでもありますね。
p(^_^)q がんばって
長くなってしまいました。(;^_^A アセアセ・・・
最後まで読んだ暇な方、ありがとうございます!(^_^;)

これからも
応援よろしく!励みになります。
(v^-^v)♪
本当に消し去りたい過去の話は思い出したくも無いこと・・・
一つを消せば今は違う人生だったのでしょうが、それが幸せなのか?と思いながら車の中で聞いていました。
今の記憶を持ちながら過去に行けば失敗はしないのでしょうが・・・?
そうでなければ、また失敗でしょうね~。(ーー;)

9月30日の運勢が、1位!とあったので取っておきましたが、な~な~にも無かった!「運気がアップします。」とは、どういう事を言うのでしょうか?
ん~・・・ときめいてみたい・・・
(*ov.v)o_(〃ω〃)テレテレ♪
いい年こいて・・・(>_<)
本日9月30日の「今日は何の日」は、
1571年9月30日、織田信長による比叡山焼き討ちの日。


翌1571年、浅井長政、朝倉義景らをたてに当時の寺院が世俗の権力と一体化して、宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを懸念、批判していた織田信長は、比叡山の僧侶たちの皆殺しを計画します。

織田信長は僧侶、学僧、などの首をことごとく刎ねたと言われていますが、擁護する弁も出ているのは間違いなく、
当時の史料である1570年の「多聞院日記」にも
「(比叡山の僧は)修学を怠り、一山相果てるような有様であった」と記されており、
「信長公記」にも以下のような記述があります。
山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く
当時の比叡山が堕落していたことが指摘されたものは他にもあり、
焼き討ちの責は比叡山にあるとの指摘は・・・
小瀬甫庵も「太閤記」で
「山門を亡ぼす者は山門なり」と比叡山の僧を批判
新井白石が「読史余論」で
「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり、是亦天下に功有事の一つ成べし」として以降、
比叡山焼き討ちは肯定的に評価されてきました。・・・
しかし、書かれ残されてきたものは、織田信長にとって優位なものばかりであるように思えてなりません。(^_^;)
戦国時代の事件などを記録した「多聞院日記」の著者は、奈良興福寺の僧侶であり、歴史的に比叡山とは長い対立関係にありますし、「信長公記」「甫庵太閤記」の元となる資料の著者は太田牛一で、信長の家臣でした。

日本の歴史学者である林屋辰三郎は、織田信長が近江における宿所を比叡山とは創設以来の対立関係にあった園城寺(三井寺)光浄院にしていたことが大いに関係する旨の指摘をしているようですね。
来年のNHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」は、まさに織田信長に殺された浅井長政と、織田信長の妹であるお市の方の三女として生まれた江(ごう)を主人公に時代背景に迫るのでしょうが、このドラマでも比叡山焼き討ちの本筋に、迫ってくれるものと期待をしています。(^_^)v

p(^_^)q がんばって
長くなってしまいました。(;^_^A アセアセ・・・
最後まで読んだ暇な方、ありがとうございます!(^_^;)

これからも

(v^-^v)♪