日本のウヰスキーの父
会社の近くで通行止め!何?と見ていたら子供みこしでした。
夏のお祭りももう終わりですね。(*^-^)b

ハッピ姿は勇ましいです。
今日は書く事が無い・・・(;^_^A アセアセ・・・です。
暇な方は、今日の日を見ていってください。さて・・・何書こう・・・
本日8月29日の「今日は何の日」は、
1979年8月29日、「日本のウイスキーの父」と呼ばれた竹鶴政孝が85歳で亡くなった日です。
少し触れて・・また長くなったらスミマセン(;^_^A 短めに・・
ウイスキーを語る時に、知っていて欲しい人物、竹鶴政孝さん。ウイスキー誕生の地であるスコットランドに単身乗り込んで、ウイスキーの製法技術を持ち帰った人。1962年にイギリスのヒューム副首相が来日した際、「万年筆一本で、わが国のウイスキーの秘密を盗んでいった青年がいた」とユーモアたっぷりに賞賛された人。
サントリーウイスキーの基礎を作った人。ニッカウヰスキーを創設した人・・・
洋酒メーカーのCMを昔から見ているように思いますが、日本のウイスキーは100年くらいの歴史しか無い事が分かります。


実家が造り酒屋であった為お酒に興味を持っていた竹鶴さんは、大阪高等工業学校(現大阪大学)の醸造学科を経て1916年大阪市の洋酒メーカーであった摂津酒造に入社します。
当時の我が日本には国産ウイスキーがなく、本格的なウイスキー作りを計画した摂津酒造は、まだ入社2年目だった竹鶴さんの情熱をかいウイスキー作りの本場スコットランドに研修のため派遣することにしました。
スコットランドのグラスゴー大学に入学、応用化学を学ぶ竹鶴さんは、ウイスキー関係の文献を読みあさり、ここで出会ったウイリアム博士の紹介でローゼスという町に下宿します。ハイランドと呼ばれるこの地方には多くの蒸留所が点在し、竹鶴さんはその多くを訪れて一生懸命学びました。ウイスキー用の蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除も買って出たと言います。
大学では・・・ここで生涯の妻となるリタの妹のエラに出会います。
エラを介して出会った二人、竹鶴さんは、イギリスに残っても良いと思うほどの惚れ込みようでしたが、竹鶴さんの夢が日本で初の国産ウイスキーを作る事・・・
ウイスキー作りを学んだ竹鶴さんに、リタは二人で日本へ行きウイスキー作りをする事を勧め、周りの反対を押し切って二人は結婚、そして日本へ向かいます。

帰国した竹鶴さんたちを待っていたのは、・・・世界恐慌!
資金調達ができず、計画は頓挫し会社を辞めてしまいます。^_^;
数年後、同じように国産ウイスキーの生産をしたいと思っていた壽屋の鳥井信治郎は、スコットランドに技術者を求めましたが、「日本には竹鶴と言う人物がいるではないか」と教えられ、外人の技術者を雇うつもりの高額な給料で竹鶴さんと10年契約をします。
今でもあるのか分かりませんが、壽屋の主力商品であった「赤玉ポートワイン」のシンボルマークの赤い玉=太陽(サン)に、社長の鳥井という名前をつなげた「サントリー」の始まりでした。
鳥居社長は水の良い所、そして流通を考え山崎に工場を構えます。
竹鶴さんは本場のスコットランドと環境が似ている北海道にこだわっていて、契約の10年でサントリーを辞め北海道余市へと移ります。
ウイスキーの仕込みなど数年掛かるため、それまでの資金稼ぎにとリンゴ農家が多かった事から、100%リンゴジュースの販売を計画、大日本果汁(株)を創設しますが、当時100%ジュースはなかなか受け入れられず苦労の連続でした。
まあそんな話は今回必要ないみたいなので戻しますが、ようやく発売にこぎつけたウイスキー!、名前は会社の名前から日と果を取りニッカ、ようやくニッカウヰスキーが世に出たわけです。
日本のウイスキーを一人で本場のスコットランドの基準まで引き上げた男、竹鶴・・
2011年イギリスのウイスキー専門誌の発行元が主催するコンテストで、世界最優秀賞を5年連続ニッカは受賞!工場近く、同じ墓で眠る竹鶴政孝氏と応援し続けたリタさん夫妻は雲の上で乾杯していることでしょう。
♪(*^^)o∀*∀o(^^*)
やはり長くなってしまいました。(;^_^A アセアセ・・・
たまには、ウイスキーの水割り、いかがですか?
水割りの割合は皆さんどれくらい?
私は・・・
ウイスキー1:水2くらいでしょうか!?
これ以上薄いと香りが分からなくなってしまいます。
かんぱ~い♪(*^^)o∀
いつもご訪問、ありがとうございます!(^^♪

これからも
応援よろしく!
励みになります。
(v^-^v)♪
夏のお祭りももう終わりですね。(*^-^)b


ハッピ姿は勇ましいです。
今日は書く事が無い・・・(;^_^A アセアセ・・・です。
暇な方は、今日の日を見ていってください。さて・・・何書こう・・・
本日8月29日の「今日は何の日」は、
1979年8月29日、「日本のウイスキーの父」と呼ばれた竹鶴政孝が85歳で亡くなった日です。
少し触れて・・また長くなったらスミマセン(;^_^A 短めに・・

サントリーウイスキーの基礎を作った人。ニッカウヰスキーを創設した人・・・
洋酒メーカーのCMを昔から見ているように思いますが、日本のウイスキーは100年くらいの歴史しか無い事が分かります。


実家が造り酒屋であった為お酒に興味を持っていた竹鶴さんは、大阪高等工業学校(現大阪大学)の醸造学科を経て1916年大阪市の洋酒メーカーであった摂津酒造に入社します。
当時の我が日本には国産ウイスキーがなく、本格的なウイスキー作りを計画した摂津酒造は、まだ入社2年目だった竹鶴さんの情熱をかいウイスキー作りの本場スコットランドに研修のため派遣することにしました。
スコットランドのグラスゴー大学に入学、応用化学を学ぶ竹鶴さんは、ウイスキー関係の文献を読みあさり、ここで出会ったウイリアム博士の紹介でローゼスという町に下宿します。ハイランドと呼ばれるこの地方には多くの蒸留所が点在し、竹鶴さんはその多くを訪れて一生懸命学びました。ウイスキー用の蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除も買って出たと言います。
大学では・・・ここで生涯の妻となるリタの妹のエラに出会います。
エラを介して出会った二人、竹鶴さんは、イギリスに残っても良いと思うほどの惚れ込みようでしたが、竹鶴さんの夢が日本で初の国産ウイスキーを作る事・・・
ウイスキー作りを学んだ竹鶴さんに、リタは二人で日本へ行きウイスキー作りをする事を勧め、周りの反対を押し切って二人は結婚、そして日本へ向かいます。

帰国した竹鶴さんたちを待っていたのは、・・・世界恐慌!
資金調達ができず、計画は頓挫し会社を辞めてしまいます。^_^;
数年後、同じように国産ウイスキーの生産をしたいと思っていた壽屋の鳥井信治郎は、スコットランドに技術者を求めましたが、「日本には竹鶴と言う人物がいるではないか」と教えられ、外人の技術者を雇うつもりの高額な給料で竹鶴さんと10年契約をします。
今でもあるのか分かりませんが、壽屋の主力商品であった「赤玉ポートワイン」のシンボルマークの赤い玉=太陽(サン)に、社長の鳥井という名前をつなげた「サントリー」の始まりでした。
鳥居社長は水の良い所、そして流通を考え山崎に工場を構えます。
竹鶴さんは本場のスコットランドと環境が似ている北海道にこだわっていて、契約の10年でサントリーを辞め北海道余市へと移ります。
ウイスキーの仕込みなど数年掛かるため、それまでの資金稼ぎにとリンゴ農家が多かった事から、100%リンゴジュースの販売を計画、大日本果汁(株)を創設しますが、当時100%ジュースはなかなか受け入れられず苦労の連続でした。
まあそんな話は今回必要ないみたいなので戻しますが、ようやく発売にこぎつけたウイスキー!、名前は会社の名前から日と果を取りニッカ、ようやくニッカウヰスキーが世に出たわけです。
日本のウイスキーを一人で本場のスコットランドの基準まで引き上げた男、竹鶴・・
2011年イギリスのウイスキー専門誌の発行元が主催するコンテストで、世界最優秀賞を5年連続ニッカは受賞!工場近く、同じ墓で眠る竹鶴政孝氏と応援し続けたリタさん夫妻は雲の上で乾杯していることでしょう。
♪(*^^)o∀*∀o(^^*)
やはり長くなってしまいました。(;^_^A アセアセ・・・
たまには、ウイスキーの水割り、いかがですか?
水割りの割合は皆さんどれくらい?
私は・・・
ウイスキー1:水2くらいでしょうか!?
これ以上薄いと香りが分からなくなってしまいます。
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