荻野博士と薔薇のオギノ公園
日々巡回に明け暮れていますが、新潟中央警察署の近くにある営業所の側に小さな小さな公園がありますが、そこの薔薇が見事に咲いていたので撮りました。(´∀`)オギノ通りです。

歩道から見える部分ですべての小さな「オギノ公園」です。

公園の奥に銅像が見えます。

「産婦人科医荻野久作銅像」
オギノ通りに「オギノ公園」
産婦人科医で荻野久作・・
ご存知の方も多いのではと思いますが、「荻野式避妊法」の荻野久作博士の銅像と言えばわかるでしょうか?
新潟市のごく普通の通りですが、新潟県内で個人名の名の付いた通りはここが最初になります。
荻野博士は愛知県出身で中村姓でしたが、1901年(明治34年)に新潟市の荻野忍の養子になり荻野姓になります。
学業優秀で1909年に東京帝国大学医科大学を卒業、3年後の1912年に新潟市の竹山病院産婦人科医長に着任するとともに新潟大学で研究を続けました。

この通りは目抜き通りの裏手のひっそりとした静かな通りです。
荻野博士の自宅があった通りで、没後に新潟市民の運動により、その功績を讃えて「オギノ通り」と名づけられたのでした。

たったこれだけの大きさですが、見事な薔薇が沢山咲いています。
誰が手入れしているのでしょう?(・∀・)
話は戻りますが、荻野博士は不妊や多産に苦しむ新潟の女性を目にして、当時解明されていなかった排卵時期の研究を行いました。
そして1924年に論文「排卵ノ時期、黄体ト子宮粘膜ノ周期的変化トノ関係、子宮粘膜ノ周期的変化ノ周期及ビ受胎胎日二就テ」を完成させ「日本婦人科学会雑誌」に発表します。
この論文は当時賛否両論有りましたが、6年後の1930年にドイツの学会誌「婦人科中央雑誌」に「排卵と受胎日」というタイトルで発表され、日本でも日本婦人科学会雑誌に掲載されます。
それを見たオーストリア人のヘルマン・クナウスは、荻野博士の手法の目的を逆転させて、避妊法として使うことを提唱しました。
しかし当時から避妊法としては他の手段と比べて非常に不確実な手法だったので、荻野博士は反対意見を表明しますが、不本意にもこの避妊法は後にオギノ式と呼ばれるようになってしまいます。
もっと確実な避妊具などの方法があるにもかかわらず、自身の学説を安易な避妊法として使う事には一貫として反対、むしろ不妊治療に役立てて欲しいと主張しました。しかし「オギノ式」は一人歩きし、結果望まない妊娠をして人工妊娠中絶により失われる命のあることに荻野博士は憤りを感じました。
荻野学説によって受胎期が大略算定できることから、自然に逆らわない避妊法として応用され、荻野式受胎調節法と称されましたが、荻野自身は「避妊法と受け取られるのは迷惑で、むしろ子供が欲しい人に役立つ学説」であると主張し続けたのでした。

このバラ園・・じゃないや公園は、銅像の立設の際作られています。
荻野博士のもう一つの業績は、京大の岡林博士が開発した子宮頚部癌の手術術式を改良、荻野変法という根治率の高い手術術式を開発普及させ、現在の子宮癌手術の基礎を築き上げたことにあります。
しかも多忙な開業医の仕事の中での資料と観察によって築かれた事を考えると、驚異的な業績である事になりますね。(o^-^)

小さい池が有りましたが、元気な小さな魚(メダカ?)も泳いでいます。
ここに佇むと、自然の入口に入り込んだ錯覚を覚え癒される公園です。
1951年新潟市名誉市民、1952年日本産婦人科学会名誉会員、19555年第2回世界不妊学会名誉会長に推され、1958年紫綬褒章、1996年度朝日賞、晩年に至るまで診療に手術にたゆむことなく従事。
1975年1月1日、新潟市寄居町の自邸で病没、93歳でした。
【新潟県大百科事典参照】

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オギノ通りに「オギノ公園」
産婦人科医で荻野久作・・
ご存知の方も多いのではと思いますが、「荻野式避妊法」の荻野久作博士の銅像と言えばわかるでしょうか?
新潟市のごく普通の通りですが、新潟県内で個人名の名の付いた通りはここが最初になります。
荻野博士は愛知県出身で中村姓でしたが、1901年(明治34年)に新潟市の荻野忍の養子になり荻野姓になります。
学業優秀で1909年に東京帝国大学医科大学を卒業、3年後の1912年に新潟市の竹山病院産婦人科医長に着任するとともに新潟大学で研究を続けました。

この通りは目抜き通りの裏手のひっそりとした静かな通りです。
荻野博士の自宅があった通りで、没後に新潟市民の運動により、その功績を讃えて「オギノ通り」と名づけられたのでした。


たったこれだけの大きさですが、見事な薔薇が沢山咲いています。
誰が手入れしているのでしょう?(・∀・)
話は戻りますが、荻野博士は不妊や多産に苦しむ新潟の女性を目にして、当時解明されていなかった排卵時期の研究を行いました。
そして1924年に論文「排卵ノ時期、黄体ト子宮粘膜ノ周期的変化トノ関係、子宮粘膜ノ周期的変化ノ周期及ビ受胎胎日二就テ」を完成させ「日本婦人科学会雑誌」に発表します。
この論文は当時賛否両論有りましたが、6年後の1930年にドイツの学会誌「婦人科中央雑誌」に「排卵と受胎日」というタイトルで発表され、日本でも日本婦人科学会雑誌に掲載されます。

しかし当時から避妊法としては他の手段と比べて非常に不確実な手法だったので、荻野博士は反対意見を表明しますが、不本意にもこの避妊法は後にオギノ式と呼ばれるようになってしまいます。
もっと確実な避妊具などの方法があるにもかかわらず、自身の学説を安易な避妊法として使う事には一貫として反対、むしろ不妊治療に役立てて欲しいと主張しました。しかし「オギノ式」は一人歩きし、結果望まない妊娠をして人工妊娠中絶により失われる命のあることに荻野博士は憤りを感じました。
荻野学説によって受胎期が大略算定できることから、自然に逆らわない避妊法として応用され、荻野式受胎調節法と称されましたが、荻野自身は「避妊法と受け取られるのは迷惑で、むしろ子供が欲しい人に役立つ学説」であると主張し続けたのでした。


このバラ園・・じゃないや公園は、銅像の立設の際作られています。

しかも多忙な開業医の仕事の中での資料と観察によって築かれた事を考えると、驚異的な業績である事になりますね。(o^-^)


小さい池が有りましたが、元気な小さな魚(メダカ?)も泳いでいます。
ここに佇むと、自然の入口に入り込んだ錯覚を覚え癒される公園です。
1951年新潟市名誉市民、1952年日本産婦人科学会名誉会員、19555年第2回世界不妊学会名誉会長に推され、1958年紫綬褒章、1996年度朝日賞、晩年に至るまで診療に手術にたゆむことなく従事。
1975年1月1日、新潟市寄居町の自邸で病没、93歳でした。
【新潟県大百科事典参照】

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