今日は一日雨でした。


天気の悪い日は美術館にかぎります。(*^^*)

新潟市立美術館です。
工芸品の価値は私にはやはり分かりませんでした。(-_-;)
やはり私向きは絵画を見る方ですね。(^.^;
常設展の方では写真が撮れます。

新潟市出身の画家、佐藤哲三郎の作品「下萌」

左から加山又造の「冬」、森村泰昌の肖像「9つの顔」、アンソニー・グリーンの「レッド・ラウンジ」、など、あまり良いコレクションとは思えない作品と言ったら怒られそうですが、私的には佐藤哲三郎の作品以外心に残るものはありませんでした。(¯―¯٥)
久しぶりに今日は何の日へ~(=^‥^)/
本日12月16日の「今日は何の日」は、

1890年12月16日、東京市内と横浜市内の間で日本初の電話事業が開始された
「電話創業の日」です。
当然の事ながら、その時代の電話器は画像でしか知り得ない事ですが、私が覚えているダイヤル式の黒電話は同じように若い人は知らないのでしょうね。(^.^;
東京滝ノ口と横浜居留地に電話局が設置され、当時は女子7人・夜間専門の男子2人の交換手が対応したと書いてありました。(*´ω`*)
交換手で思い出しましたが、私が昔 勤めていた
主婦の友社書籍・レンタル店「TSUTAYA」を事業展開するCCCグループのカルチュア・エンタテインメント(C・E)が、主婦の友社を子会社化したと正式に発表しましたね~!(T_T)
私が勤めていた頃は大きな会社で、社員も千人近くいて野球のグランドやテニスコート等、いろんな設備も備えていました。各課対抗の野球大会や社員旅行も豪盛だった記憶です。給与なんかもトップクラスで辞める時には周りに勿体無いと何度言われた事でしょう。
そんな会社がいつの間にか大日本印刷株式会社の子会社になってしまい、更に今度は本を卸していたTSUTAYAと同じ傘下になって、・・・
出版会社は大変な時期に来ているようですね。(;^_^A
交換手の話しでしたね。(^^ゞ
勤めていた頃よく会社に遅刻したもので、課に電話を入れる時に必ず交換手を通して話します。お陰で交換手と仲良くなって公園でボートに乗ったりして遊んだ事がありました。・・また脱線してしまいました。(^▽^;)

私が最初に電話に出会ったのは、このダイヤル式の黒電話でした。当時は1通話10円だったので、中学生の頃は何時間も長電話してよく怒られたものです。(;´▽`A``
どこの家でも玄関先に置いてあって、廊下に座って話していた記憶です。

そうだ!中学生の頃、佐渡ヶ島へ夏にテント持参でキャンプした時、電話を借りた事がありましたが、この黒電話の右側にグルグル回す取っ手が付いていたのを思い出しました。(*^^*)

それから時代は進み、カラー電話になったりファッション電話と言われるものが出たりしました。

会社ではプッシュ式の電話に変わっていましたね。

時代はその頃から急激に進化し続けました。コードレスが出たり、FAXや留守番機能が付いたり、今や携帯電話からスマホなど凄い進歩だと思います。
公衆電話も最初は赤いダイヤル式の電話でした。

この赤い電話も黒電話時代の公衆電話で、10円玉1ヶで何分でも話せた記憶です。 次に掛けたい人が列になって順番を待つ光景がアチコチに有りました。

私が喫茶店内に設置していた電話は、ピンク式公衆電話でした。 この時代になると3分10円の時代で遠距離通話をするには、10円玉をいっぱい用意して話さないと途中で通話が切れる事態も遭遇したものです。(;´∀`)

そして公衆電話も緑のプッシュ式に変わり、100円玉やテレホンカードが使えるようになりました。

公衆電話もデジタル化が進み、繋がる速度も早くなりましたが、・・
今では一気に個人が電話を持つ時代になり、その姿もどんどん消えていってます。一時期プレミアムカードやコレクターまで登場したテレホンカードは・・どうなるの?まだ持ってるし・・(T_T)
災害の時に設置される公衆電話でしたが、・・・そのうち、公衆電話もなくなるのでしょうか・・・。
長々と書いてしまいましたが、今日は「電話創業の日」でした。
私はまだガラ携帯です。(^.^;
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こんにちは

思い出します。主婦の友社へ遊びに行った時、ジーパンでお仕事されてましたよね。普通のサラリーマンと違ってマスコミ関係の業界人だ~と思いましたよ。(笑)
チューリップのピンク電話で有線リクエストを頼まれた時は、熱心なんだなぁ~と思いましたよ。チューリップ愛ですね。

いい所にお勤めだったのに勿体ない。
私が子供の頃は家に電話がなく
前の家が呼び出ししてくれたようでした。
いつごろ家にも電話が入ったのかな~
出かけると公衆電話も便利でしたよね、カード持ってますね
それが今は大人も子供も携帯電話持ってます
私もガラケイですが、電車に乗るとみんな指でスースーやってますね。
美術館もホント行かないなぁ~絵画も個性があり過ぎるので
写真が好きですね。
こんにちは
思い出します。主婦の友社へ遊びに行った時、ジーパンでお仕事されてましたよね。普通のサラリーマンと違ってマスコミ関係の業界人だ~と思いましたよ。(笑)桂子さん、こんばんは!(^o^)/
そんな若い頃のお話しもありましたね。(^.^;
当時の主婦の友社は、出版業界が盛んな頃で、就職希望者が
殺到、退職者も少なくて大学生が700人位受けても7人位しか
採用できない程すごい人気な職種でした。
昔は家計簿の別冊付録が人気でしたが、今は有ってもパソコンで
何でも出来る時代、本自体の衰退もあり大変な事態になっていました。
本社ビルもいつの間にか無くなって寂しいかぎりです。(T_T)
チューリップのピンク電話で有線リクエストを頼まれた時は、熱心なんだなぁ~と思いましたよ。チューリップ愛ですね。
懐かしい話しばかりですね。(;^_^A
開店当時は必死でしたからね~!
ピンク電話の裏のカギを解除して10円入れなくても
リクエスト出来るようにして有線への電話をお客様にも
お願いしていましたね。「虹とスニーカーの頃」1本に
集中でした。皆さんのお陰で新潟県での有線リクエスト
1位になった事からTULIPも復活しました。
良い想い出です。(*^^*)
いい所にお勤めだったのに勿体ない。
あとで考えればそうでした。(^.^;
最初に入った会社が出版社だったのですが、他の職種も
同じくらいの給料を貰えるものと勝手に思ってました。
新潟へ戻ったら、なんとすごい差があって後で後悔しま
したよ。(*^^*)
私が子供の頃は家に電話がなく
前の家が呼び出ししてくれたようでした。
いつごろ家にも電話が入ったのかな~
最初は我が家もそうでした。(^^ゞ
隣の家から電話ですよ~!と呼び出されるのが普通でした。
家電の債権が高かったですよね。
今でも債権って売れるのかな~?休止中の回線が1本
まだあります。(^o^)b
出かけると公衆電話も便利でしたよね、カード持ってますね
それが今は大人も子供も携帯電話持ってます
私もガラケイですが、電車に乗るとみんな指でスースーやってますね。
美術館もホント行かないなぁ~絵画も個性があり過ぎるので
写真が好きですね。
東京1年生の頃も、大家さんから借りていました。(;^_^A
掛ける時はさすがに公衆電話でしたが、10円玉を集めるのに苦労
した覚えがあります。テレカが出て便利になりましたが、余ってる
テレカの使い道が今は無いですね。
美術館はよく行きますが、私は宗教画家の油絵が好きです。(*^^*)
懐かしいですね。
実家でも黒電話は長く使っていたので、不要になった受話器を貰ってきて
今でもインテリアとして我が家においています。
昔、親戚のおばさんが電話局に勤めていて、交換手をしていたので
仕事場に連れて行ってもらったことがあります。
子供だったのでどういうシステムだったのかは分かりませんが
数人の交換手さんがいて、その前には小さな穴がいっぱいあいたパネル板があり
机の上には無数のジャックコードが並んでいて、電話がかかってくると
そのジャックを壁の穴に刺して相手に繋いでいました。
今考えると、どのコードにかかってきてどの穴に繋ぐのかどうして分かるのかが不思議ですが
子供だったので追及しなかったけど、この記事を読んでそのことを思い出しました。
そのおばさんはもう亡くなってしまったので、秘密を聞くことはできなくなりました。(^^ゞ
黒電話
懐かしいですね。
実家でも黒電話は長く使っていたので、不要になった受話器を貰ってきて
今でもインテリアとして我が家においています。
yosshy さん、こんばんは!(^o^)
あ~良いですね~!私も前取っておいたのですが、今何処へいったか
わからなくなってしまいました。(^.^;
あのドッシリした感じが1台置くだけで存在感があってインテリアに
なりますよね。(^o^)b
昔、親戚のおばさんが電話局に勤めていて、交換手をしていたので仕事場に連れて行ってもらったことがあります。
子供だったのでどういうシステムだったのかは分かりませんが数人の交換手さんがいて、その前には小さな穴がいっぱいあいたパネル板があり机の上には無数のジャックコードが並んでいて、電話がかかってくるとそのジャックを壁の穴に刺して相手に繋いでいました。
今考えると、どのコードにかかってきてどの穴に繋ぐのかどうして分かるのかが不思議ですが、子供だったので追及しなかったけど、この記事を読んでそのことを思い出しました。
そのおばさんはもう亡くなってしまったので、秘密を聞くことはできなくなりました。(^^ゞ
それも懐かしいですね~!(*^^*)
確かに穴がいっぱいあって、どこに挿しているのか私も分かりませんでしたが、私が思うに内線で並んでいたのでは無いでしょうか?課ごとに分かれていたりして、あとは慣れですかね?今では交換手が居るような会社になかなか出会えてませんが、まだ有るのかな~懐かしい想い出話し、ありがとうございました。(^o^)/
プリティ・カフェ・チューリップ さん、会社の交換台ではなかったのですよ。
電電公社の交換手だったので、個人の家から個人の家に綱いてたんです。
多分ダイヤル式になっていない時代だと思います。
自分も抱っこされている頃なのに、なぜかその光景は覚えてるんです!
当時はそれ程電話も普及してなかったし、田舎の電話局なので
電話を引いてる人も少なかったかもしれないけど、それにしても繋ぐ相手は日本全国なのでどうなってたんだろうと思いますね?
それよりも、自分の休日にそんな職場に子供を連れて行って許されていたことのほうが
もっと驚きかもしれませんが・・・・(笑)
プリティ・カフェ・チューリップ さん、会社の交換台ではなかったのですよ。
電電公社の交換手だったので、個人の家から個人の家に綱いてたんです。
多分ダイヤル式になっていない時代だと思います。
自分も抱っこされている頃なのに、なぜかその光景は覚えてるんです!
当時はそれ程電話も普及してなかったし、田舎の電話局なので
電話を引いてる人も少なかったかもしれないけど、それにしても繋ぐ相手は日本全国なのでどうなってたんだろうと思いますね?
yosshyさん、こんばんは!(^o^)
もっと前の話しですね。私も電電公社が民営化する前の話しは少しNTTに関係していた時期もあり多少の知識だけは有りますが、実際には見たことは有りません。(^^ゞ
ダイヤルの無い時代は受話器を上げて交換手へ話す相手を告げ、交換手がジャックを差し込んで相手を呼び出す形だったと思いますが、市外だと相手の交換手を呼び出して相手の方でまた繋いでもらう為、時間が掛かったと聞いています。
今の物流・宅配と同じですね。各家庭から各地域の物流拠点まで荷物を回収して運ぶ運転手が交換手、物流拠点が交換台、他の物流拠点まで届けるのがケーブル、そして届く先の拠点から各家庭を繋ぐ(運ぶ)交換手、で、相手に届く。
お客が増えて対応出来なくなりデジタル交換機へと移行されましたが、今でも交換手は多少残っていて「100番通話」をするとオペレーター(交換手)が出ますよね。通話料金を教えてくれたりもします。デジタル化されたのは、忙しくなった事もありますが、話の内容が交換手に聞かれてしまう個人情報の面からも普及が加速したと言われています。
それよりも、自分の休日にそんな職場に子供を連れて行って許されていたことのほうが
もっと驚きかもしれませんが・・・・(笑)
職場に子供を連れて行けない今の方が世知辛くて異常なのかもしれませんね。昔はもっと大らかでオヤジの会社で行われた運動会に小さい頃 家族で参加した覚えがありますが、工場などの危険な所以外は立入禁止なんかも無かったです。今は企業秘密だらけでどんな会社でも立入禁止の札が有ったりしますね。
オイルショック以降、そんな風潮になってきた気がします。(*´ω`*)
たまに見かけると なんだか嬉しいですね(^-^)
最近は使うことがなくなりましたが、何かの拍子(?)に無いと困る事もあるのかもしれません。
そう思うと、やはり 近くにあって欲しいですねぇ
チューリップさん、かつては出版社勤務でらしたのですか〜?
幼い頃から憧れていた職業でもありますσ(ё,ё )
私が学生の時には、下宿にピンク電話があったけど、みんな地方出身者だったから、10円玉が足りなくなっては両替しあっていました。
娘を母に預けて上の息子の幼稚園の面接に行った時に、娘がひきつけて救急車出動となり、母からポケベルで連絡が入ったけれど、当時はもう公衆電話がなかなか見つからない時代になっていて、気ばかり焦って、結局、戻る途中の駅で下車し、ホームの緑電話から自宅に電話した…のも、忘れられない思い出です。
それにしても、これだけたくさんの種類の電話機が並ぶと壮観ですね!画像を集めてくださってありがとうございました~
公衆電話
たまに見かけると なんだか嬉しいですね(^-^)
最近は使うことがなくなりましたが、何かの拍子(?)に無いと困る事もあるのかもしれません。
そう思うと、やはり 近くにあって欲しいですねぇ
凪さん、こんばんは!(^o^)
公衆電話はコンビニでも見なくなってきました。
気にして見たことが無いので、今どこにあるのか(^^ゞ
あったら良いとは思いますが、今後使うことが無い事が
一番かも知れませんね。(*^^*)
チューリップさん、かつては出版社勤務でらしたのですか〜?
幼い頃から憧れていた職業でもありますσ(ё,ё )
千代田線で御茶ノ水まで通っていました。(^^ゞ
明治大学の前で主婦の友社本社ビルがあったのですが、
その建物は今でも残っていると思いますが、いまグーグルの地図を
見ると、日本大学大学院法務研究科図書室になってました。
建築物としても立派な建物です。
社員でありながら、正面玄関からは威厳のある階段を上がれず
裏からいつも入っていました。当時が懐かしいです。(*´ω`*)
懐かしいです
私が学生の時には、下宿にピンク電話があったけど、みんな地方出身者だったから、10円玉が足りなくなっては両替しあっていました。
ナカリママ さん、こんばんは!(^o^)
私が下宿していたアパートは1階が大家さんで、よく借りていました。
聞かれたくない時は銭湯の前にあった公衆電話で10円玉を
いっぱい持って掛けていましたよ。(*^^*)
娘を母に預けて上の息子の幼稚園の面接に行った時に、娘がひきつけて救急車出動となり、母からポケベルで連絡が入ったけれど、当時はもう公衆電話がなかなか見つからない時代になっていて、気ばかり焦って、結局、戻る途中の駅で下車し、ホームの緑電話から自宅に電話した…のも、忘れられない思い出です。
ポケベルも有りましたね。焦ってると尚更探しても見つからない
のは、電話以外でも結構ありますが、大変な思い出でしたね。
そんな時代から今や個人が電話を持つ時代、あまりに便利になり
過ぎて、管理されすぎの気もします。
それにしても、これだけたくさんの種類の電話機が並ぶと壮観ですね!画像を集めてくださってありがとうございました~
時代の流れは早いと感じます。(^.^;
半世紀で初めて電話が入ってから個人の端末まで進んでしまう
とは、進化の速さは驚きばかりです。(^▽^;)